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坂田 一男/Sakata Kazuo

1920年代のパリに渡り、その最先端で活躍した坂田一男(1889~1956)は、近年再評価の機運が高まっている抽象画家です。

岡山県船頭町にて医学者の息子として生まれた坂田は、自身も医者を志したものの高等学校受験の度重なる失敗をきっかけに病気を患ってしまいます。しかし、療養中に洋画家の阿藤秀一郎(1888~1972)から木炭画を学んだのをきっかけに、画家の道へと転身を図ります。1914年に上京すると、本郷絵画研究所では岡田三郎助(1869~1939)、川端画学校では藤島武二(1867~1943)と、近代洋画の重鎮たちから手ほどきを受け、技術を磨いていきました。

第一次世界大戦後、1921年に渡仏してからは、アカデミー・モデルヌにてフォーヴィスムの画家であるオトン・フリエス(1879~1949)のもとで指導を受けるも物足りなさを感じ、その1年後にはキュビスムの画家として知られるフェルナン・レジェ(1881~1955)の教室に通うようになります。生涯の師となるレジェからは多大な影響を受けており、とりわけ創作における知性の必要性を意識し、造形を徹底的に分析して知的な画面をつくりあげるキュビスムを正しく学んだことは、日本の近代美術史における彼の位置づけを特異なものにしています。フォーヴィスムやシュルレアリスムといった西欧美術のトレンドをいち早く移植していた日本において、キュビスムにきちんと取り組んだ画家はきわめて少ないためです。パリ時代の坂田の作品は、キュビスムへの接近が窺える【裸婦】(1924年)や円錐型の組み合わせで人体を表現した【キュビスム的人物像】(1925年)、厳格な構成が際立つピュリスム風の【座る女Ⅳ】(1926年)などの抽象画がほとんどです。こうした作風や、コンパスや機械的要素といったモチーフを取り入れていた点はレジェの影響を色濃く感じさせますが、師が用いた明快な色彩よりも抑制されたモノクロームを好み、にじみやかすれなどの表情を含む自由な線を引いたところには坂田の独自性がはっきりと表れています。

1933年に帰国するものの、中央集権的な体制をきらい、自由を求めた坂田は日本の画壇を避けて岡山に戻り、倉敷市玉島に構えたアトリエにこもって新しい造形の探究に没頭しました。最晩年には、【コンポジション(メカニック・エレメント)】(1955年)のように、一見地味な単色のなかに多様なグレーが散りばめられた下地と、繊細で豊かな線による抽象画にたどりつきます。制作のかたわら、前衛美術グループ「アヴァンギャルド岡山(A.G.O)」を主宰して後進の育成にも励み、若手作家たちには「作品は絶対にオリジナルであること」を強く求めました。

当時の日本でキュビスムがあまり浸透しなかったこと、坂田が世俗的な評価を求めず中央画壇から距離を置いたこと、二度にわたる水害で多くの作品が失われたことなどにより、キュビスムのその先にある造形を突き詰めた彼の先鋭性、独自性は、生前ほとんど認知されていませんでした。没後、1957年のブリヂストン美術館における遺作展を契機に、忘れ去られていたその仕事や功績がようやく日の目を見ることとなり、現在では国内外における同時代の作家との比較を通して研究が進められています。

坂田 一男/Sakata Kazuo

坂田 一男/Sakata Kazuo

坂田 一男/Sakata Kazuo

坂田 一男/Sakata Kazuo

坂田 一男/Sakata Kazuo

坂田 一男/Sakata Kazuo

作品名:作品

サイズ:27×24cm(紙にグワッシュ)

価格:ASK

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