オノサト・トシノブ/Onosato Toshinobu
オノサト・トシノブ(本名・小野里利信、1912~1986)は、抽象絵画の先駆者として戦後美術界の第一線で活躍した画家です。長野県飯田市に生まれ、1922年に教師である父の転勤によって移り住んだ群馬県桐生市を生涯にわたり活動の拠点としていました。
理科や数学が得意だったオノサトは、電気技師になるつもりで1931年に日本大学工学部電気科へ入学します。しかし、当時高揚を見せていたプロレタリア運動を背景に、脱サラリーマン指向を促されるかたちで画家を志すようになり、同大学は一学期で中途退学に至りました。
退学後は津田青楓(つだせいふう、1880~1978)の洋画塾で油絵を学び、1935年には第22回二科展に入選しています。また、同年に長谷川三郎(1906~1957)、その翌年には瑛九(1911~1960)といった前衛的な若手作家たちとの出会いを果たし、大いに刺激を受けながら自身の感性を磨いていきました。そして、自由美術協会の結成に参加した1937年において、オノサトは初めて具象的要素を含まない抽象画を手がけます。現存しているものの1つである【切断された円】(1937年)は、大きな円をモチーフの中心に据えた幾何学的な作品であり、後に構築される作風に通ずるものがあります。以降、東京国立近代美術館に所蔵されている【黒白の丸】(1940年)などが構成主義的な作品として注目を集めますが、第二次世界大戦に際し召集に応じ、戦後もシベリアに抑留され、1948年まで創作の中断を余儀なくされました。
復員後、雑誌で見たピカソ(1881~1973)の絵に触発され、7年間の抑圧から解き放たれた1949年の作品には人物のモチーフが取り入れられているとともに、キュビスムの影響も色濃く反映されています。精力的な活動を経て、色彩やフォルムは次第に単純化を極めていき、1955年、ついに円と直線によって画面を分割するというオノサト独自の様式が固まりました。朱色、黄色、緑色、紺色を基調としたモザイク風の画面の中心に輪郭を持たない鮮やかな円が据えられたその絵は、まさしく1937年に片鱗を見せた作品世界の確立でした。
1960年代に入ると、画面はより複雑化し、錯視的な様相を呈していくようになっていきます。大きな円を正方形で分割し、一定の法則で画面を埋めつくす手法によって生み出された緊密できらびやかな絵画は曼荼羅を思わせ、国際的にも高い評価を受けました。1961年にワシントンのグレス画廊で、国内では1962年に志水楠男(1926~1979)主宰の南画廊でそれぞれ個展を成功させています。1963年に第7回日本国際美術展で最優秀賞を受賞した【相似】は、様々な形の四角形が画面いっぱいに描きこまれたなかに、その微妙な色彩の差異から巨大な円が間接的に浮かびあがってくる不思議な視覚体験をもたらします。こうした一連の作品はオプ・アートを想起させますが、視覚的な効果はあくまでも結果であり、目的ではないことをオノサト自身が明言しています。「私の仕事にとって最も重要なことは、〈実存〉ということだ。符号としての純粋物(色彩)を頭脳組織の打出す指示にしたがって、配列し、つみかさねることだ」と語っている通り、内なる声を聞き、自然現象のごとき流れのうちに生み出されていく絵画は「一つの物、一つの精神的物体となる性質をそなえて」おり、そしてそれはまさに、オノサトの精神を結晶化したものにほかならないと言えるでしょう。
作品名:作品
サイズ:4号(1974年 キャンバスにアクリル)
価格:SOLD OUT
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